植民地オーストラリアでも、1830年代、1840年代には政府のあり方に対して論議の輪が広がっていきました。
英国人が憲法の原則、ことに王室のあり方と議院内閣制という制度に対して自信を深めると、この考えはオーストラリアにまで広まりました。
これらの制度は英本国でも1830年代後半当時には、まだしっかり定着しているとは言い難い状態でした。
しかし、人民による政治を築こうという願いが、要求をおし進めていたのです。
植民地エリート達は自らの政治権力を保つことで、変化の芽を抑え込もうとしました。
1838年、非公式ながら政府の指名を受けたニューサウスウェールズ立法議会は、次の見解を示しました。
「当評議会の考えでは、家族ぐるみで移住している陸海軍の将校、東インド会社社員を初めとして身分も資力も様々な自由移民は、オーストラリアで生まれた人々と手を携えて植民地人を形成し、その社会活動、道徳態度は英王室のいかなる領土の住民にも遜色をとらず、尊敬に値する資質が充分である」。