植民地上流階級の子弟の為に教育施設を設けるという課題は、社交クラブの設立に勝るとも劣らないほどの重要課題でした。
1832年には、英国国教会の開祖ブルートン司教の志をめざし、パラマッタキングススクールが開校されました。
この学校は「上流階級に属す両親を持つ子弟にすぐれた一般教養、化学、宗教教育を施し、未来の立法官、知事、その他の役人にふさわしい心構えを学ばせよう」としました。
一方タスマニアでは、英国の公立学校を改革したラグビー校のトーマス・アーノルトの助言の下に、ジョン・フランクリン総督が中学校を設立しようと努めていました。
オーストラリアでの国教会でもあった英国国教会は、教育の分野で初めての敗北を喫しました。
ニューサウスウェールズの英国国教会の長として、ブルートン司祭の前任者であるスコット大補祭は、英国国教会が、植民地における教育の全てを独占しようと企んだのです。
しかし英国では宗教遵守の傾向に変化の兆が現れスコットのたてた一連の計画は頓挫の憂き目にあいました。
1833年、英国議会は英国国教会国立協会のみならず、非国教徒が支持する非教派主義により教育を行う英国及び海外学校教会を援助する為の基金を設立することを決議。
オーストラリアでは非英国国教会派のリーダー、ことに長老派教会のJ・D・ラングが植民地の教育を支配しようという英国国教会のもくろみに抵抗していました。